数寄者石山政義の時空遊泳その96 著莪(シャガ)の花に故人を想う

左写真は門から入った正面燈籠後方石垣に咲く著莪の花)
春を賑わした花々もサッと、あるいはモノによってはジタバタと散っていってしまった
そして鎌倉の山々は愈々緑が深まっていく・・・は、森羅万象が出来事
ゆえにいつものとおり素直に受容してていくとして・・・・・
さて、先般のブログに続いてまた一人、大事な愛すべきひとが黄泉の国に入ってしまった・・・・・
断腸のおもい、っといきたいところだが、こんなに早く大事な方々が次々と逝ってしまったのでは
身体はついていけるが頭が全然追いつかないのは拙僧でなくても誰でもが体験することとおもうのだが・・・・
そして、時間の経過とともに逝ってしまったこれらの方々が隙を狙っては神出鬼没するのだ・・・・
が、拙僧は未だ無くなったという事実を頭で理解出来ていないから追い払うことは出来た
ってゆーか、理解したくない、ってのが本音・・・・・
で、拙僧としては相も変わらぬ繁忙仕事に茶の湯、居合、山行にヘタなゴルフ、そして古美術董集癖への没入三昧の日々・・・・・
これらの数寄なことはその凝り性という性癖も手伝って28歳からのことである
もっともゴルフだけは今年で4年目なのだが冷静沈着を装っているもののどーにもこーにも思うようにいかないから半分諦めてはいるのだが・・・・・ネ(デ・モ・煩・悩・108・キ・リ・タ・イ)
したがって全てに対して拙僧なりの理性が働いている・・・と確信したい
しかし、最近、漸く逝ってしまったという事実に頭が反応し始めたのだ
そーか、ついにきたか・・・・・、ってヤツ
それらは黄泉の国からいちいちの一挙手一投足を活動写真として明暗共々パッ、パと送ってくる
が、始まったこれらの悲喜交々な現象を拙僧としては寧ろ愉しむこととしたい
それが鬼籍に入った人々の供養になると。
漠然とではあるが自分なりに考えたことである
そしてそのようなことを踏まえ、逝った人々の偉大さ、そして慎ましくも人生を全うしたことを想ふにつけては尊敬と感謝の気持ちで身が引き締まるのだ
そんなことを想い乍ら漫然と早朝の、ひんやりとした山庭を散策すれば著莪の花がまさに満開だ
竹薮内、あるいは苔生した岩、はたまた石垣の陰に群生、点在している
緑一色の山内に浮かぶ白と黄色の花弁はとても幻想的だ
石段、そして適当に配された飛び石を黙々と歩いているとそれは華やかながらもとても質素で逝った人たちとあそぶには真に相応しいひとときであった
合掌